人生は遠い遠いところにいってしまったと思いながらひとつきが経った
最近、いくつかのものに対して「思っていたよりも面白い」と感じるようになった。
たとえば、J-POP。
apple musicがランダムに流してくれるので、この不可思議なジャンルに区分されている曲を次から次へと聞いていると、「案外面白い」と思う曲にたくさん出会った。
「明日への希望」「明けない夜はない」「出会えた奇跡」「あなたはひとりじゃない」…
そんな言葉を浴び続けたら耳がもげるわ、とずっと思ってきたけれど、
世の中の曲は別にそんな泥みたいな言葉だけでできてはいなかったし、
興味がないと思ってきた歌手の曲も、聞き流しているうちになんとなく体のなかにとどまっているものがあることに気づいた。
さらに、apple musicの優秀なところは“today's”と銘打ちながら“こんにち”の幅をかなり広く捉えていることだ。気鋭の女性アイドルグループの新曲が流れたかと思えば、hitomiの「LOVE2000」がかかり、かと思えば森山直太朗の歌声が飛び込んでくる。浜崎あゆみも斉藤和義も初めて聞いた。
「意外と面白いね」と思うJ-POPにたくさんであったことは、世の中にキャッチアップする感覚、時代の呼吸にピントが合う感覚を久しく感じていなかった私にとって、
非常にみずみずしく新鮮な経験だった。
同時に実家のように懐かしいこの感覚を私は肌になじませていった。
”J-POPで語られがち”な言葉にうんざりしていたことは事実だけれど、
もう少し我慢強く幅広く聞いていればよかったんだと気付いた。
世の人達が親しんできた曲を取り込むなかで私は、次第に世の中そのものに再び興味を持っていった。
それから、この泥の底に沈むみたいな日々のなかで私を毎日笑わせてくれたyoutuberという存在について。
たとえば、東海オン〇アとか。
こんなにくだらなくて笑える人達がちゃんと世の中に広く受け入れられているのなら、世の中捨てたものじゃないか?と大袈裟でなくそう思った
なによりまず、youtuberはほとんど毎日動画を更新してくる。
私がどんな1日を過ごしたかにかかわらず、絶対に毎日笑かそうとしてくる。
昨日も今日も明日もなくどろどろに溶けた私の時間に、「毎日」を刻んでくれたのは間違いなく彼らだ。
それから、お約束で予想外で適当で計算された日々ゲーム性に富んだ彼らのやりとりを見ていて、私も自分との会話(こんなものがあることはきっと恥ずかしいことだけど)のなかで、もっとオモシロを増し増しにできる要素があるなと気づいた。
自分を相手に何をむきになって正しくあろうとしていたんだ。
気まぐれなゲーム性を持たせることで、私はただ漫然と過ごすことしかできなかった時間に区切りをつけることができるようになり始めた。
もうひとつだけ彼らについて書いておきたいのは、「自分たちは芸人さんじゃない。おもしろい人たちじゃなくて、おもしろいことに挑戦する人たちだ。」と自らを語っていたことだ。
これはスべることへの保険として語られた一方で、力強い自己規定でもある。
「頑張る人じゃなくて、頑張ろうとする人」という当面の肩書を自分に与えらえることに私は心底勇気づけられた。
こんな感謝をされる筋合いはないだろうけれども、私は彼らに感謝している。
「子どもが見るものだ」なんて、そんな見えない上から目線の架空の誰かの言うことは無視して、1回見てみればよかったんだ、と今にして気づいた。
そうやって、一度のぼせたせいでぐつぐつ煮立つ熱湯風呂だと思っていた世の中なるものに、
私は足の先からじわじわと入りなおしてみた。
すると「あら意外といい温度?」てな具合だったわけ。
もう少し奥の方は熱い湯がたまっているかもしれないし、
一度はもう関わりたくもないと思ったのだけど、
入ってみなきゃわからないなってことはだんだんわかってきた。
それで結果的に肩までつかることはできなければ、
またしばらくつま先だけ浸してじっとしていればいい。
私は「頑張ろうとする人」だから。
いますぐに「頑張る人」にはなれなくても。
そして私の今日のニュースは、数週間ぶりに新聞を読んだこと。
世の中の流れをくみ取ろうすることをもう長いこと避けていた。
世のなかというものから距離をとって、思考を保留することが必要だったから。
そんな私が、こうして世の中という浴槽の淵まで戻ってこられたことは、
それ自体、物凄いことなのだ。
まだ今はそれだけだけど、きっと事態はよくなっていくと思う。
そう思うことは決して悪いことじゃない。