たすかり体操 第一

ひとりにして、ひとりにしないで

好きだよ、ホンモノ。愛と憎。

ほんものが好き。

偽物が嫌い。

 

これについて言いたいことはふたつあって、

 

ひとつは、

かりものの言葉は嫌いってこと。

 

もうひとつは、

私はずっと、いままでもこれからもほんものじゃないってこと。

 

 

まあでもね、前者はどうとでもなるわけさ。

自分はそうしないぞ、という信条の問題だし、

嫌いな言葉で語る人間は、「好かん」と思っておけばいいだけだから。

 

日々切羽詰まってるのは、後者について。

 

でも先に、今日は言葉の話がしたい。

いやなものはいやだから。

 

 

 

どういう語りが嫌いかと言えば、

いろんなパターンがあって

 

アニメや漫画から借りてきたような文句とか、

 

接続詞でやたら理路整然と話すとか、

 

私〇〇な人/タイプなんですよねという類型化とか

 

話盛り上げるよぜんぶつっこんでくよっていう人工的な話し方とか。

 

何かのマネしてるの?って話し方が嫌い。

 

 

 

まあでも、

 

こうして並べてるパターンも全部かりものなんですけどね。

なんたる墓穴。

 

そもそも、日々もっといろいろな場面でかりものの言葉が嫌いって

思ってるのに、

いざ書いてみると

他人の口調が気に食わないって話にすり替わってしまっている。

 

そういうところがあるよ、私。

 

そしてまたちょっと落ち込むわけだ。

 

まあいいよそれは。この際置いとこう。 

 

 

 

あとは、

twitterでめっちゃリツイートされてるツイートの

コメント欄とかも嫌い。

 

何言ってるのかわかんない

意味不明な

議論ともつかない

文字の応酬。

 

ネットにはある種のかりものの言葉の文化があるから、

その辺が気持ち悪さの所以なのかなと思ったりもするけど、

 

この気持ち悪さの背景には、

ネットのなかに、

客観的な裏付けを欠く議論と同じくらい、

主観に厳しい議論が多いことへの違和感もある。

批判、相対化の嵐。

 

他者への配慮と、

主観の排除は別問題でしょう。

 

私の主観を否定するやつはみんな敵だと思ってるので、

主観の排除には敏感になってしまう。 

 

 

とまあこんな調子の私は最近、

他人にすぐ共感してしまう自分と

 

他人の痛みになぞ微塵も興味がない自分との折り合いが全然ついていない。

 

そのせいで、ここ数日は後者のようなことばかり極端に考えて、

 

ほんとに理解できない。他者。

ほんとに興味ない。他者。

 ていうかほんとに嫌い。他者。

 

って感じ。 

理解したいし、興味しかないのにね、ほんとは。

 

矛盾矛盾。

 

 

 

 

 

一体なんの話でしたか。

 

 

疲れたので私がほんものになれない話はまた次にでも。